「とても」や「かなり」、「やや」など、私たちは会話のなかで〈程度〉を表す副詞をひんぱんにつかいます。では、「とても大きい」の「とても」は、いったいどれくらいの大きさなのでしょうか。話し手と聞き手とのあいだで、「とても」が示す程度を正確に共有することはむずかしい。「程度表現」は程度を表そうとするものですが、程度を直接に表すわけではないのです。
中国語にも「程度の副詞」があります。中国語の表記文字である漢字は表語文字の代表例で、文法化を経た「機能語」とよばれる語にも、実質的な意味が色濃く残っています。そのような語を使って、抽象的な〈程度〉をどのように表そうとしているのか。ここにおもしろさを感じたのが研究の原点です。
対象とするのは、現代の中国語です。新聞記事やテレビドラマのセリフ、小説などの文章をたどりながら、どのようなときに、どの〈程度表現〉がつかわれるのか、なぜその表現が選ばれるのかを紐解いています。時代をさかのぼって比較することで、〈程度表現〉がどのように生まれ、変化してきたのかという過程を導くこともあります。
中国語には、最初から〈程度〉専用の語はありません。日本語でも同じで、たとえば「とても」はもともと〈程度〉の単語ではなく、「とてもかくても(どうせ、いずれにしても、の意)」の略だとみられています。それが「とても~できない」のような用法を経て、しだいに「程度の副詞」としてつかわれるようになりました。中国語でも、「かえる、かわる」を表す〈更〉、「もどる、もどす」を表す〈还〉、「くらべる」を表す〈比较〉などが、動詞から程度副詞に転じています。
中国語の程度表現の例
表現 | 意味 | どんなときに使う? |
---|---|---|
这本书很好。 | この本は(とても)良い。 | 「とても」に近いですが、他の何かとの対比でないことを示すときにも使います。 |
这本书还好。 | この本はまあまあ良い。 | 状況的にみてAは「良くない」となりそうなところ、実際は「良い」の範囲内。 |
这本书更好。 | この本はもっと良い。 | Aが「良い」と思っているでしょ?その認識、変更します。Bが「良い」です。 |
这本书比较好。 | この本は比較的良い。 | Bと比べればAが「良い」。比較を経た判断であることを示しますが、比較したフリの場合もあり。 |
リニューアルが起こりやすいのも〈程度表現〉のおもしろさ。とくに高い程度を表すものは、日本語でも「超」、「バリ」、「マジ」、「鬼」など、次つぎと新しい表現が生まれます。捉えどころのない〈程度〉を効果的に表そうとする、人びとの苦労や工夫の跡が見えるのも魅力です。
私にとって中国語は外国語。ネイティブスピーカーでは当たり前すぎて気がつかない問題を発見できるはずだと信じて、中国語と向き合っています。
日本語話者だからこそ気がつける中国語の当たり前があります。たとえば、日本語では「この本は大きいね」とだけ発しても、違和感はありません。でも、中国語では程度副詞などを使わず、「这本书大(この本は大きい)」とだけ言うと、「この本は大きくてあの本は大きくない」とか「この本は大きいからカバンに入らない。あの本にしたほうがいい」のような含意をもちます。こうした中国語の特徴とその理由を、日本語や英語などの他言語と比較して見つけてゆきたいです。
〈程度表現〉を体系的にまとめたさきに見据えているのは、たとえば「大きい?小さい」と表現するとき、「大小」の〈程度〉を認識し、それを言語化するプロセスの解明。これがわかれば、程度にかぎらず、人間が抽象的なものや客観性のないものを認識して言語化するプロセスの解明にも役立てられるのではないかと考えています。
中国からの留学生と、日本語と中国語の違いについてよく話します。たとえば、友人を遊びに誘うとき、日本では「きょう、時間ある?」、「いまどこにいる?」など、段階をふんだあとに本題を切り出すことが多いです。でも、中国の人がそれを聞くと、尋問されている気持ちになり、不審に感じるそう。(笑)「映画を観に行かない?」、「バーベキューをするからおいで」など、直接的に言ってほしいと。
AIによる翻訳技術が進歩し、単純な読み書きはクリック一つで変換できます。でも、その言語の話者が世界をどう認識するのかは、AI翻訳では気がつけません。第一言語ではない言語を学ぶことは、自分とは違う理屈があるのだと、身にしみて知る手がかりになるのです。
中国では、書籍や論文のデータベース化が進んでいます。出版されるとすぐに、ウェブサイトを通じてアクセス、ダウンロードができる。その結果、中国本国で中国語研究は大きく進歩しています。運営方針などの検討が必要な部分はありますが、日本でも成果をどんどんオープンにすることで、研究の進歩につながるのではと期待しています。